読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ヨコズキゲーム’

ゲームの事しか書いてない らじてんのブログ。

「バイオショックインフィニット」(ネタバレ補足編)

感想 海外 バイオショックインフィニット アドベンチャー

 はてなダイアリーと、はてブロ、両方に記事を貼ってるのって、いい加減コピペサイトを量産してSEOを強引に突破するヤクザ業者っぽいな、と思っている俺です。

 記事を書くのはダイアリーの方がやりやすいし、デザインはダイアリーの方が広い感じがするんだけど、フォントとか、機能面では、はてブロの方が良いんだよな・・・。


■そんな事よりゲームしようぜ

 いや、全然やってない。
 今期のアニメに秀作が多く、だらだら見てると寝る時間。一日、短いよ。

 よって「バイオショック・インフィニット」の周回プレイも進んでいない有様。
 プレイするより他人のレビューを読み漁ったりしてて、エヴァ観た後状態になってる。

 しかし、1周プレイで終わらすのはどう考えても勿体ない。
 という事で、ハードモードでプレイし始めたが、最初の戦闘辺りまで進めた時点で「あ、この調子でやると刺激が薄くなって3周目しないぞ」と思ったため、1999モードに変更しゴリゴリ進めていくプレイに変更。1999モードクリアすればハードクリア実績も多分解除されるだろ(雑)。

 現状、使ってなかったビガーコンビネーション探ったりしつつ、サクサクと英雄広場まで進めたところ。マップが頭に入ってるから早い。
 逆に探索は知ってるところばかりで面倒。1周目にかなり丁寧に探索したしなぁ。
 収集系の取り逃しはまた気分が向いたらまとめてやろうかな。向かなかったらもういいや位で。

 ちなみに、さっき調べるまで、自販機無使用の実績は、武器強化・ビガー強化にも適用されると思ってた。なんだ、武器とビガー強化出来るなら、自販機ポゼッションで金ならあるんじゃ金ならー!!ってんで余裕なんじゃないの? 
 明らかに面倒くさそうなのはハンディマンくらいか。
 今のとこの難易度だと、ノーマルと同じく、チャージ+近接からのダメージ倍加ギアとか、ショッカーorバッキングブロンコ連鎖ギアで、大体は強引に撃破出来そうな気がしてきた。まだどっちのギア持ってないけど(リロードしてのギア当てが面倒臭すぎてサボった)。
 とか言ってて後半のカムストック銀行前辺りとかセイレーンとか滅茶苦茶しんどかったりして。まぁ、そのくらいの方が張り合いあって良いんですけど。

 2周目プレイは、1周目では見落とし聞き落とした手がかり伏線が楽しいのは勿論、はっきりと登場してこない脇役のボックスフォンも楽しい。
 皮剥ぎのおっさん(後でプレイして確認したらダウンズさんでした)とか、スレート絡みの女軍曹(後でプレイして確認したらモンローさんでした)とか。こいつらどっかでさりげなく死んでんのかな。

 あと、終盤の展開中にボックスフォンの内容を思い返すのと、全ての展開を解ってからボックスフォンを聞くのじゃあ、全然違う。いや、当たり前なんだけど。特に俺の記憶力のテキトーさったらないからな。


■初代バイオショック評を振り返って、更に考えるインフィニットでぶち抜かれた理由

 色んな人のインフィニット評を読んだり、2周目をプレイしながら、1周目で自分が味わった衝撃の理由について、更にぼんやりと考えていた。
 で、今回は、今までいまいち言葉にならなかった事について書く。

 ※以下、初代、インフィニット双方のネタバレを含むので、未クリアの方は注意。





 初代バイオショックは、終盤直前においての展開で、大仕掛けを通して、主役とプレイヤーが重なる瞬間がある。
 ゲームという制約によって発生する不自然を逆手に取り、ゲーム的な不自然さをゲーム内の設定で解消する事で、結果、プレイヤー自身を巻き込んだどんでん返しが仕込まれた物語は、高い評価をされた。

 じゃあ、インフィニットはどうなのか。
 インフィニットは、初代のようにゲームの構造そのもの対するカウンターパンチな仕掛けに欠ける、というような声がネット上では見られるのだが、どうもピンと来ない。
 というのも、自分はインフィニットでも初代バイオショックと同じような体験をしたからだ

 インフィニットは、初代と違い一本道感が強い。
 エンディングは一つで、攻略経路にもほとんど遊びがない。進行過程こそ一本道だが、移動経路に自由が感じられ、マルチエンディングだった初代に比べると、かなり誘導されている感覚が強く仕上がっている(ボタン一発で表示されるガイドが大きな理由だろう)。
 こうしたゲーム的な構造は、ゲーム中に提示される「起こったことは起こるし、起こらないことは起こらない」という世界収束論(運命論)と重なってくる。
 いくら選択肢があってもプログラムされたゲームの物語は変化させられないよ、と言う、ほぼ全てのゲームの構造と、細かな過程は変えられても、大きな分岐路は変えられない、と言うインフィニットの世界の構造は、随所で重なる。
 運命に操られるままに進み続けクラブを振り下ろすまでの主人公と同様、ブッカーはなぞられた道を戦い続ける。
 初代バイオショックをプレイした後だからこそ、そうした言いを一本道の構造に感じながらプレイした。


 ゲームの構造そのものに対して、インフィニットの世界観(と言うか、制作思想)を通して感じさせながら、プレイを進め、辿り着いたゲーム終盤の展開で、初代と違う趣きでありながら、ゲーム内の枠を超えた体験をした。

 ※ここからはかなり個人的な感想になる。他の人が同じように感じたか、あるいは感じれるかはちょっとわからない。どちらかと言うと、同じように感じれるかは、割と怪しいと思う。

 インフィニットにおいて、ブッカーの記憶は並行世界を移動する度に重ね合わせられ、どこまでかは解らないものの、いくらか改竄され続ける。
 並列世界が切り替わり、以前の世界の体験と移動後の世界の記憶に齟齬が生じた場合、記憶側が改竄され帳尻が合わされるケースがあるようだ(これは、ブッカーが、タイムリープ物における「主人公以外」のポジションを担わされていることを意味するようで面白い)。
 終盤の怒涛の展開中、昏倒した状態のブッカーを引きずるルーテス兄妹の会話から、ゲームをプレイした開始当初のブッカーの設定は、ブッカーが記憶を改竄して捏造した結果のものだと解る。

 この事実が解った時点で自分は「ブッカーそのもの」になってしまったのだ。

 確かにブッカーは自分とは生い立ちも性格もまるで違うキャラクターだ。
 しかし、世界を越えて、別世界の自分の可能性と重なった時、その世界線の自分の記憶が今の自分の記憶に重なり、重なり合ったままになったり、あるいは改竄されるというのなら、自分が世界を越えた時にブッカーに重なり合う事もあるのではないか、と考えてしまったのだ。

 当然、ブッカー自身が並列世界を越えても持ったままの、プレイヤーが知らないブッカーの記憶や設定は確かにある。しかし、それらの根本的な設定は、終盤までゲームを進めた過程で、主観視点で体験する事により、プレイヤーも共有出来ている。
 ならば、自分は今画面を通して、ブッカーという可能性と重なり合っていると考えられるのではないか

 主観視点による演出の数々と、初代バイオショックの体験が結びついたのか、単に自分が入り込みやすい性格だからなのか、気付けば自分は、ブッカーと同化した。
 ゲームをプレイして、見知らぬ世界を冒険していたつもりでいたが、実は自分はブッカー・デュイットであるという記憶を改竄し、忘れていただけではないか。あるいは、ブッカー・デュイットであった可能性を見せられているのではないか。
 いや、実際にはそんな訳ないんだが、そういう気持ちになってしまったのだ(多分アメリカ人だともっとこの気持ちを深く感じた人もいるんだろう。うらやましい)。

 大事な事をずっと忘れてしまっていた。
 エリザベスを救い、世界を元に正す為に清算せねばならない。
 そのためには自分は死ななければならない。

 ブッカーでもあり、カムストックでもあり、同時に自分自身でもある状態を夢想し、画面内のブッカーの気持ちと重なった気持ちのまま、自分は水の中に沈められた

 初代バイオショックをプレイした時、操られるままにクラブを振り下ろす主人公を見て、ここまで操られるままにプレイを進めて来た自分を重ね合わせた事と似た体験があった。
 初代と違った事は、死んだのは敵ではなく、自分だった事だ。

 相当画面内に入り込んだ個人的な体験だとは思うが、このような気持ちで終盤のイベントを体験した事も、初代を越える衝撃としてインフィニットが刻みつけられた理由の一つだと思う。


バイオショック・インフィニットが海外に立てた爪

 さて、ちょっと軽い話。
 バイオショック・インフィニット発売以来、どうも海外で今更な議論が活性化(再活性?)してる模様。

 Choke Point | 元People Can Fly創設者が語る次世代ゲーム・デザイン「もう昔のやり方は通用しない」
 歴史に名を残す作品となった「バイオショック インフィニット」の波乱に満ちた開発の歴史をふり返る « doope! 国内外のゲーム情報総合サイト

 物語・演出と、ゲームプレイの乖離についての議論っちゅー話だけど、グラディウス」をプレイした段階で「爆発した機体と、その後、画面端から飛び出した機体の因果関係はどうなってるの?」という疑問を抱いた自分にとっては、今更過ぎる話。

 2chスレなんかでも「ゲーム的な描写に対する疑問」は繰り返されたネタであり、大抵の日本人にとっても、かなり今更感が強いんではないだろうか。

 まぁ、ほんとのところ、海外でも、折に触れ問題視されて来たんだろうと思う。
 Adrian Chmielarzさんは、なんか最近のインディーゲームブームに絡めた話として着地したいみたいだけど、そんな事ないだろ。でないと、どんだけ海外のプレイヤーはゲームルールに柔軟(あるいは異常に気付かないほどアホ)なんだ、って事になる。
 バイオショック・インフィニットの体験が凄まじいインパクトだった為、話題が盛り上がり、先にも書いた今作の仕掛けや演出の捉え方に対しての議論や、インパクトの一方「ブッカーがとんでもない量の食料を一瞬で食べて撃たれた傷を回復してしまう異常」や「緊迫した状況でもボックスフォンを探す為にあちこちウロウロして雰囲気台無しなプレイをする必要性が出る(出ているとプレイヤーに思い込ませてしまったり)間抜けさ」というゲームっぽい事例に対する議論が連鎖爆発したんだろうなと(二つ目のリンク先記事でもそういう見解っぽい)。

 こういうゲームプレイと物語の乖離って、今後の和製ゲームではあんまり気にされない気がする
 ほとんどの日本産ゲームは、世界観もキャラもデフォルメされてて、違和感が少ない。もう海外のようにリソース万歳、リアリティー万歳って方向に行けないし。
 気にする必要が出てくるタイトルって「メタルギアシリーズ」と「龍が如くシリーズ」くらいかしら。
 でも、あの二本ってギャグというバランスで不自然をメタネタにしてしまえる感じ作って回避してる。
 日本人は乖離とか整合性とか超うるさいからな。逆に乖離をギャグにして回避する様が小賢して鬱陶しく思えるくらいに。


 現状の海外製AAAタイトル群を、リアリティーの最大公約数に照らし合わせ、不自然さを極力失くす状態にするとなると、ゲームとしてつまらなくなるか、システムもリソースも膨大化して制作が破綻する想像しか出来ない。俺の想像力が貧困なせいなんかな。

 つまらなくならないよう、かつ、システムもリソースも膨大化しないように作るとなると、状況を限定したり(そもそも色んな事が出来る状況にしなければ不自然に思う場面が減る)、設定を用意したり(ゲーム的な処理に対する言い訳を特異な世界観でフォローする)、デザインを抽象化する(デフォルメすればリアリティーのハードルは下げれる)、というような工夫が必要とされてくるわけだが、変に合わせ技が決まり過ぎると、ミニマムな世界観ばかり陳列されていく可能性も見えちゃったりして、不自然を気にして、そんなタイトルばかりになったら個人的にはつまらんなーと思う。
 なんつーか、バイオショックインフィニットの間抜けさは、確かにちょっと残念なんだけど、GTAとかスカイリムとかに発生するゲーム的間抜けは、シリアスに対するちょっとしたフレーバーとして楽しいよな、って言う。
 ゲーム的間抜けをオミットするために、GTAやスカイリムの世界が小さくなったらガッカリだし、セインツロウ2が売れたのって割とそういう意味のカウンターだったんじゃねえの?と考えたり。


トゥームレイダーやる暇ないんじゃね。

 しかし、この調子では、「トゥームレイダー」をプレイしないまま「真・女神転生4」の発売に突入し「LAST OF US」まで悪魔の巣から帰って来ない可能性が出てきた。

 トゥームレイダー「何故か小笠原諸島にあった邪馬台国は気になるんだけど、真・女神転生4の具合見て考えようかな。